損得勘定のいろいろ
先回、士農工商について書いたところ、賛成の意見を多々いただいた。ありがたいことだが、誤解もあるようなので、はっきりさせておきたい。
私が言いたかったのは、損得勘定(計算づく)で人生を渡るべきではないということだ。もし損得勘定で人生を渡り切れるものならば、楽なものだと思っている。その点ではご賛成をいただいたようだ。
しからば、損得勘定とは何なのか。損得を計算し、常に利益を得ようということなのか。しかし、計算したあげくに損を取ることだってあるではないか。俗に言う、損して得を取る、というやつだ。
では、上記の損得を死生と置き換えたらどうなるのか。つまり、計算したあげくに死を選ぶこともあるということだろう、よりよく生きんがために。
私が言いたいのはそこなのだ。ただ金を儲けたいがための、ただ命を永らえたいがための損得勘定ほどみっともないものはないということである。そういう人達は、どれほど社会的に成功していようと、どこかに卑しさが澱のように潜んでいる。
「あなたは自分の子どもに死ねと言えますか」と言う優しい心根の人がいる。もし喜んでイエスと言う人がいたら、頭がおかしいと思うしかない。それでも、私はその優しい心根の人に尋ねずにはいられない。「あなたは、自分の子どものために死ねないのですか」と。
そうなのだ。人生は計算だけで渡れるほど甘くはない。この世には自分の命を懸けても護るべきものがある(はずなのだ)。
それを認めようとしない平和論者達には、金輪際、人間性の尊重などという言葉は使ってもらいたくない。人間性を貶めているのは、まさに、命あっての物だねを金科玉条にしている彼らなのだから。