僕の翻訳流儀―オリジナルを書くように訳す #2
そして今、オリジナル作品についても同じことが言えるような気がしている。最初は、翻訳と同じように、最初から最後までの成り行きを頭に入れていた。しかし今は、一読者になって作品を書いているのだ。いざコンピューターの前に座っても、何を書くかはわからない。いや、そうではないな。主人公の一人や二人については詳細なデータを頭に入れている。ただ彼らがどう動いて何をするかが決まっていないのだ。
だから、確かに時間はかかる。話しが詰まってしまって二、三日唸っていることもある。しかし最近だが、目先が利くようになったと言うのか、こうなったらああなるということが意外とぴったりくるようになったのだ。
しかしそれはやはり、読者が決めることだろう。読んでみてさっぱり面白くないと言う声が多くなれば、僕はやはりこの仕事を辞めるか、やり方を変えるしかないだろう。僕は現在81歳だが、先のやり方で作品を書きながら、結構面白いなと思っているのである。その結果がどう出るか、僕は楽しみでならないのだ。
翻訳という、手本になるような作品を日本語に直す場合にも、僕は同じ方法を取っている。確かに、これでは無理だな、と思うこともある。今まで黙っていたが、そういう作品には、これまで4回ほど出会ったことがある。しかし無理かなと思いながらも、やり方は変えなかった。いい事だったのか、悪いことだったのか、いまだに判断がつかないのだ。今回15年ぶりで翻訳を再開したが、今回は一度、オーソドックスなやり方にしてみようかと思っている。
さて、これで先ほどの質問に答えることになったのだろうか。よくわからないが、そうであれば幸いだ。