良寛和尚
私の同年輩の知人が二年前に、癌で死んだ。仮にKさんとしておこう。胃に異変を感じて病院へ行ったところ、スキルス胃癌という診断だった。まだ初期段階にあり、手術で延命が期待できるが、きわめて悪質かつ進行の早い癌のため、放っておけば余命三ヶ月から半年と宣告された。
家族が手術を望んだことは言うまでもない。ところが、K氏は断固として手術を拒否したのだ。定期的に診察は受けるものの、それはあくまでも自分のデータを癌治療に役立ててほしいということで、医師たちともだいぶ激しくやり合ったそうだ。
しかしK氏の決意は固く、死亡時期がほぼ確定できる癌で死ねるのは本望だと言い、家族に対しては、楽しい人生だった、感謝こそすれ何の不満もあるわけではない。お父さんの最後の我が儘だと思って承知してほしいと懇願したという。
それからのK氏は読書三昧、愛犬の散歩を楽しみ、下手の横好き(!)の料理教室にも通いだした。とくに犬の散歩の際は、愛犬の望みのままに歩くため、何時間も帰ってこなかったそうだ。そして余命半年という宣告から三年あまりが経った二年前に、この世を去った。さすがにやせ細りはしたが、痛みに苦しんだのは最後の一日だけ、その前日までほぼ平常どおりの生活をしていたという。しかも、スキルス胃癌は消えて、死因は原発性の喉頭癌であった。
私は、彼の遺書の一部を見せていただいた。そこには、家族への感謝と別れの言葉とともに、自分の意識が明瞭であるあいだはいかなる治療も拒否する旨が書かれ、さらに、自分の心の支えとして、良寛和尚のあの有名な一文が書いてあった。
私はK氏を尊敬している。できるものなら彼のように生きたいと願っている。K氏は、人生には病(敵)が存在することを熟知していた。そして、より良く生きるために、従容と死を受け入れたのだ。K氏の冥福を祈りたい。
(2012年8月のブログより)