三島由紀夫の嘆きについて考える ②
僕はいつも、他人のゴミ出しの様子を窺がっているような人間が嫌いだと言っていますが、この手の類いの、小さな正義感を振り回して悦に入っている人間はまず、小説を読んでいませんね。あなた方の周りにもいっぱいいるでしょう。立派なことを言いながら、妙に一つのことにこだわる精神バランスのおかしな連中が。もしこういう人達が世の中の大半を占めているとしたら?
なに、お前のことだろうって? そうなのです。よほど気を付けていないとミイラ取りがミイラになりかねません。読書の最たる効用のもう一つは、心と理解力を深めることにあります。そうは知りながらも、人間が覚悟して何か事を起こす時、どうしても独善的、一方的にならざるを得ません。作家と行動家の両立を目指していた三島由紀夫が、最後の最後に、「俺は作家を捨てる 。今は行動に生きる時だ」と叫んだことはよく理解できますね。いずれにせよ、それが行動というものの限界なのでしょう。
しかしだからこそ、日頃から小説に親しみ、いざ行動を起こす時、その行動がバランスの取れた精神から生み出されたものであることを確認する必要があります。そしてもしそれが小説を読むことの効用であるとするなら、いわゆる楽しい小説をいくら読んだところで、暇つぶしに過ぎないことがお判りいただけることでしょう。
だけど僕は、暇つぶしの小説そのものに文句をつけているわけではありませんよ。一時心を遊ばせるだけの小説でも、その存在理由はたっぷりとあるのです。しかしながら、暇つぶしだけで人生の決着が付けられるものではないでしょう。確かに、人生を吹き渡る風のように生きたいという人もいるでしょう。僕はどうやら、そういうタイプではないようです。
暇つぶしの読書をする人に読後残るのは、読んだという記憶だけではないでしょうか。何年もすれば読んだこと自体を忘れてしまう。まあ、暇つぶしだからそれでもいいのでしょうが、僕の場合はいささか異なっています。異常だと貶す人もいるくらいです。どういうことかと言うと、小説の中で述べていることを、僕は自分の人生になるべく多く取り入れようとするのです。