翻訳家の事件簿-最終章 書き足し事件 #1
話は違うが、翻訳で最後の章を30ページほど書き足した例をお話したい。それは某大手出版社から依頼された英国ミステリーだった。ミステリーと言っても、ドンパチやり合うような物ではなく、登場人物たちの心理描写がぶつかり合う深刻な作品でした。
さて、その本をいつものように、一読者のつもりで訳していったのはいいのですが、最終章にきてハタと筆が止まってしまったのです。まったく想像外の終わり方です。僕は猛然とはらが立ってきました。この最後をきちんとしなければ、作品全体が詰まらなまなってしまう、僕はそう思ったのです。
そこで一週間かけて、30枚の終章を書き上げ、それを付けて原稿を出版社に送ったのです。ゲラができるまでに数か月掛かります。僕は仕事が忙しく、その仕事のことはほとんど忘れてしまっていたのです。
二、三か月して、原稿が送られて来ました。そのときに、変だなと思ったのです。本来ならば、ページを何十枚も書き足したのですから、編集者から電話が来るはずです。しかし何も連絡はなかった。と言うことは……読んでみると、僕の30枚がちゃんと乗っているではありませんか。僕としては、編集者から電話があった時に、あれは冗談ですよ、と言い合ってあっさり引き下がるつもりだったのです。さあて、困りました。
これは明らかに僕の“出過ぎた真似”で、僕を信頼してくれていた編集者にも大きな迷惑でしょう。受け取った原稿を読んでいなかったあなたが悪い、などと言えるもんじゃありません。これは考えようによっては、彼にとっても大きな事件になるかもしれないのです。