幸せですか? ②——翻訳家に復帰します!
たとえば、今僕は自分の小説を皆さんに読んでいただきたいと考えています。それも電子書籍にして。現在、日々ブログを書き綴り、いよいよ2ヵ月に一度、僕の小説が紹介されはじめました。僕はそれがしみじみと嬉しく、皆への感謝の気持ちでいっぱいです。
それからもう一つ、昨日、東京の出版社から電話があり、僕の翻訳家再デビューが決まったのです! これはもう望外の喜びでした。70歳で辞めていた翻訳業を、再現できるものか僕は知りませんでした。僕が手紙を送ったのは、日本でも有数の出版社ですが、それでも翻訳件数が最近激減していることは承知していました。しかし幸いにも、編集員の一人が僕の名前を覚えていてくれたのです。
あれやこれやの幸運によって、今の僕はかつてなかったほどの幸せを味わっています。たとえば翻訳本が出るのは半年先ですが、それまではとにかく頑張るのみです。しかしながら、いくら僕が幸せだ、幸せだと自分に気合を掛けても、僕の中にはもう一人の僕がいて、翻訳は一回限りかい、それから電子書籍の作品が一冊も売れなかったらどうするんだい、という声が聞こえてくるのです。
これは、若い頃にはないことでした。僕は常に視線を前に向けていたのです。僕の作品は翻訳であれオリジナルであれ、必ず評判になるという絶対的な自信があったのです。それが今は……これこそが、老いというものの現実だろうと思わざるを得ません。例えば、生死一如という言葉がありますね。生も死も同じものだという考えは、形では知っていたものの、例えば三島由紀夫のように、自分のものにすることは出来なかったのです。
三島由紀夫はともかく、一緒に死んだ森田必勝はまだ二十代の学生でした。三島事件の主役は森田だとも言われています。人生は、夭折することにこそ意味があるのでしょうか?
もしそうだとすると、年老いた人の人生はすべて無意味なのか? どうもそのように思えて仕方がありません。
しかしながら、70過ぎが人生のベストシーズンだと信じていた僕は、そのうらぶれた思いに反旗を翻し、僕自身の一生をもって嬉々とした、緩みのない人生を送り、感謝の言葉とともにあの世へ旅立ちたいと思います。80代万歳! 90代万歳! 100代大万歳!