老人の存在理由とは? ①
私は今年で81歳、どこから見ても文句の付けようのない老人である。物忘れの度合いと頻度は由々しきレベルに達しているし、体力の衰えは自分でもびっくりするほどだ。長年剣道をやってきて、体力には自信があったのだが、先日、蹲踞の姿勢がうまく取れないことがわかって愕然とした。
しかしまあ、こういうことはいずれ誰の身にも起こることだろう。濡れ落葉とはよく言ったもので、社会の邪魔者、厄介者になりつつあることがよくわかる。社会のさまざまな分野で、老害が叫ばれている。老人が頼りにするのは、長年我が身に蓄えてきた“知識と経験”だろう。しかし清新の意気に燃える若者にとって、そういった過去の知識や経験に固執する老人はたいがい有害な存在でしかないのだ。
若者達のお世辞に踊らされて老醜をさらしている老人ほど哀れなものはない。私を含め、当人がそのことに気づいていないのだからなお始末が悪い。過去にどれほど精通していようと、それだけで未来を語る資格を付与されたわけではあるまい。そういった老人は結局は馬鹿にされ、軽蔑され、つまるところ邪魔者でしかなくなるのだ。あなた方の周りにもそういう老人が沢山いるだろう。用もないのにふらっとやって来ては、勝手な気炎をあげて帰っていく老人達が。
あるいは、自分は哀れな老人だと言わんばかりの老人たちが。いかにも落ちぶれた感じの彼らも、そして先に述べた勝手な気炎をあげる老人たちも、結局のところ、同じ穴のムジナなのである。両者ともに、若者たちは老人を馬鹿にしていると憤っているのだから。