信じること、について
人間とはどうやら、信じることが好きな動物のようだ。信じてみたり、裏切られたといって怒ってみたり、何かと賑やかなことだ。信じるという行為も、所詮はジェスチャーゲームに過ぎないからそういうことになるのだろう。
例えばオレオレ詐欺のように、相手を初めから騙すつもりでやったことなら、騙した側に非難が集中するのも仕方がないだろう。では、結婚や友情の誓いについては、一般的な約束事の場合はどうなのか。
永遠の愛を誓って結婚し、それがやがて破綻する。責めるのは一方的に、約束を破られた側である。そして私に興味があるのは、この約束を破られ、悲憤慷慨している人々のほうである。言い換えれば、正義の御旗を手にした側の身の処し方である。
私は、そういう場合の身の処し方ひとつで、その人の人間としての“格”つまりは“真価”がわかると思っている。そういう人々が一様に口にするのは、信じていたのに裏切られた、である。そして私が言いたいのは、信じる振りをしただけなのに、妙に悲しげな顔をするんじゃない、ということだ。
ミシュランの星の数を頼りにレストランを探すような人は、おそらく、人間を見極めるときにも何かの星の数を当てにするのだろう。要するに、自分の目で評価することをせず、いつも何らかの“権威”に頼っている生き方のツケが回って来ただけのことなのだ。
信じる、とは信じきることだと私は思っている。信じきっていれば、そもそも裏切られるということが存在しない。
何回か裏切られたといってあたふたしている貴方、さんざん尽くしてあげたのになんてことだと息巻いている貴方。自分の信じる力の弱さ、己の不明、中途半端さを棚に上げて、ちょっとみっともなくはないか。
相手をとことん信じきる。そうすれば心が波立つこともない。そして結果として裏切られるような形になった場合、貴方が取るべき態度は唯一つ、俺はお前をあくまでも信じているから、また“騙しに”やって来いと声をかけてやることだろう。