目次
山本光伸の翻訳教室 ⑨
☆訳者と読者
翻訳家は自分の訳した原文をどれほど覚えているものだろうか。個人差があって当然だが、私はほとんど覚えていない。かろうじて、『エンデュアランス号漂流』の扉ページの一行
――In appreciation for whatever it is that makes men accomplish the impossible
(人間に不可能なことを成し遂げさせる何ものかに感謝を捧げて)――
があるぐらいだ。
これはなぜ覚えているかと言うと、星野道夫氏を紹介してくれた私の友人から、この“men”は文字通り「男たち」ではないか、という文句がきたのだ。僕も訳出する時に散々悩んだものだからよく覚えていた。そして僕は、強引にこの訳でいいと押し切ってしまったのだ。今考えると、じくじたるものがある――上の文章の後には、編集部のアイディアにより「星野道夫訳」とあるのだから!
それはともかく、訳出後しばらくはある程度覚えていても不思議はない。苦労した箇所はとりわけそうかもしれない。そこで、きわめて基本的なことだが、訳者として注意すべきことが二つある。
一つは、訳者がうんうん唸って訳した箇所は、読者もおそらくうんうん唸りながら読むだろうこと。訳者は唸った分、原文が頭に入っているからわかったつもりになっている。しかしそのとき初めて訳文を目にする読者はいい迷惑で、それこそ難行苦行を強いられることにもなりかねない。
二つ目は、だからこそ、翻訳者はつねに、原文を持っていない読者を想定しながら訳出作業を進めなくてはならない、ということだ。
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山本光伸 翻訳教室 ①
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僕はこれまでに、柏艪舎から翻訳に関する本を2冊出しています。『誤訳も芸のうち』と『R・チャンドラーの「長いお別れ」をいかに楽しむか』です。一作目は、文藝翻訳は一生の仕事足りうるか、という副題が付き、二作目は、清水俊二、村上春樹、そして山本光伸の訳文を併記し、何所がどう良くて何所がどう悪いのかを列記しています。また翻訳と言う作業のコツみたいなものがわかってもらえるかもしれないとも書いてあります。
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山本光伸 翻訳教室 ②
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ここには誤訳が一つと、僕が先ほど得意げに述べた、日本語と英語の表現方法の明確な違いがあります。この二つに僕が気付いたのは、丁寧に英文と日本文を読み比べたからではなく、あくまでも英文(つまり訳文)を読んでいて、おかしいなと思ったからなのです。僕がいつも言っている、オリジナルを書くように訳せ、の面目躍如と言ったところですね。
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山本光伸 翻訳教室 ③
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ではついでにもう一つ、スティーヴン・キングの秀逸な短編『ウェディング・ギグ』(The Wedding Gig)の中に、次のような一節があります。この短編は、妹思いの愛すべき小悪党スコレィの、大いに愉快で、ちょっぴり切ない物語です。
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☆文芸翻訳家への近道
言うまでもなく、近道などあるわけがなく、より“確実な道”と言い換えるべきだろう。
それは、自分で小説を書いてみることである。
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☆文法について
乱暴な言い方かもしれないが、文法に拘る方で翻訳家として一本立ちした人を見たことがない。
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☆automatically
私は副詞の訳し方がいちばん難しく、だからこそいちばん面白いと思っている。
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☆原作の香り
文芸翻訳家志望の方の中には、原作の香りを生かした翻訳をしたいと考える人が多いようだ。
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☆距離
文芸翻訳にとって大切なものは、原文と訳文との距離感だろう。初心者であればあるほどほどこの距離感に無頓着で、テキストが何であれ、自分のリズムでしか訳せない。