人を殺すぐらいなら、自分が死ぬ? ②
理想論を縦軸とするならば、必ず現実論を横軸に据えなければならない。そうして初めて、座標点が明確になり、事態が立体化すると共に自分の立ち位置がわかるのだ。現実を見ようとしない理想論、あるいは感情論は、あの綺麗な星を取っておくれと愚図る幼児の言うことと同断なのである。
人間は、純然たる獣の“一種”である。にもかかわらず、自分は獣ではありませんとばかりで、人間はいつからそんなに偉くなったのか。我々が歴史から学ぶべきは唯一つ、大昔から人間の本質は変わらないということである。近代における人間の理性主義への偏重ほど愚かしいものはないと思っている。さらに言えば、そのようなまやかしの理想論を振り回す手合いの罪の深さはいかばかりか、と思わざるをえない。
なぜなら、次の戦争を引き寄せる可能性が高いのははるかに彼らのほうなのだから。平和、平和と唱えていれば平和が来るのであれば、誰がこんなに苦労するものか。平和のために、人は死ぬことだってあるのだ。
人は平和を愛し、戦争を憎む。同時に、死を愛し、生を憎むこともある。人間の胸底深くに潜むこの暗い情念に目を向けない限り、いかなる平和論も机上の、つまりは子供騙しの空論である。
一つの例を挙げよう。日本の大新聞のほとんどが、沖縄の防衛負担を軽減させなければと声を揃える。それはいい。そのとおりだと私も思う。しかしそのうち一紙でも、独自に国内の米軍移転地域を策定し、その地域住民の説得に乗り出したことがあるのか。
オスプレイは落ちる。だから配備に反対だという。しかし、空を飛ぶもので落ちなかったものがこれまで一つでもあったのか。リンゴを剥くナイフで人を殺せるし、旅客機に爆弾を積めば爆撃機になる。物事には必ず、善い面と悪い面の二つがある。そのことを同時にながめ、同程度の注意力を傾けなければ、それは所詮子供の遊びに過ぎないのだ。